新幹線で関東へいって美術館たんのうして帰るのは
いいが
蛙みちのり
帰るみちのり新幹線が大嫌いでね
なんで帰らないといかんのか
といつも思うので
それをおもうと出発する前から憂鬱である
そんなんあるかと思っても実際そうなんだからしょうがない
しょうないしょうもない
このくらいのペースではキーボードをうつことはできるので
まあハイフンをおすのが苦手ってくらいで
あとはたいていのキーは大体考えるのの2倍くらいのペースでは打つことが
できるのではないかつまりたいした労力ではないだから
どんどん打つことが出来る
憂鬱というのはけっけきょく
結局他人のことだというのはほぼ確定しており
べつにオレは一人でいてつまんねえなと思ったら散歩するしかない
のであるそうすれば散歩の行き先で道中でなにかを見るそれはいつもの道だ
としてもいつもの道ではなくてそのときのLIVEの道であることは
確実で
あたらしいいつもあたらしい時間も光もあたらしいね
そのように世界はもし世界という言葉をつかうとすれば
いつもあたらしくうごいて進んでおり止められないので
止められない生放送のtvショーみたいなもんで
そのようにオレの内部もまた止まっていないはずなんだが
オレはそれを観察する主体なのでいつもまるでこれは
同じオレだみたいな錯覚をいつもいだいているので
「ああ~=今日も憂鬱だな~~」とか言って思っているのだが
本当は今日もまた更新した新しい憂鬱なんだよ
オレが観察するのを怠っているからいつもと同じに見えるだけだ
しかしここには観察のレベルの問題があってオレは
いつもと同じオレではあるがいつもと同じオレではないという
矛盾が同時に並行して存在している
そういうアレ自己同一性がないとオレはそのものとして
きがくるってしまうというのはあるので
それは自己が同一ですよ寝ておきても観察者も観察主体も客体も
おなじオレですよ~~
ということにしておかないとオレは毎回そこのオレなんだオレはなんだ
からはじめないといけなくなってしまうから
そういう仮の同一性があって
さらにいつも違う新しいがあるというのは外をみないとわからない
仕組みになっている
しょうがない
老化とか進んでいてもその進み方じたいは人間の時間の感覚では
観察できない仕組みになっているのだ
だから毎日日記みたいな24時間のアレではまるで観察できなくて
4か月くらいの間をあければやっと少しわかるくらいか
いつのまにか白髪になってとかいいますが
いつのまにかではない
毎日すこしずつ変化は進んでいるただ観察できないだけだ
しょうもない
そして他人はストレスだ
他人はなにを考えているのかわからんのが一番だが
その他人がまた権力を行使しようとする姿とか
勝手なことをしゃべりはじめる姿とか
うるせえよの一言だ
うるせよというのは
「こいつの言ってることはまずたいしたことではない」
「こいつの言ってることはただのこいつの感想だ
他人にむかって教示できるようなたいした内容ではない」
なのにこいつがえらそうにそういうことを述べているのは滑稽と言うしかない
しかしそんな滑稽なやつにオレが迷惑をこうむるような現象はごめんだね
遠くに逃げるよ
そんなバカみたいな穴みたいな
場所が実在するなんてね