生活実感とはなにか

昨日は図書館で若林と國分の対談をよみ

この2人の対談は間をあけつつ3回目なのだがよくつづくね

 

哲学者國分(スピノザ その他)

芸人の若林だが

多くの話題は若林が生活実感からの疑問や怒りやこれを捨てておけないこれはおかしいのではないかなどの気分について提起するところからはじまるのだが

(たとえば夕方にぼおっと夕陽をみなみている黙ってみている地域があるそれは沖縄やキューバやその他の夕陽のみれる海の堤防とかいろいろなのだが)

なにしろ若林は職が特殊でありお笑い芸人でありテレビの人であり

あと若いときに世間から冷遇されていたんだというルサンチマンもある

そういう人の生活実感とはなにか

職によって大きく規定されているのではないか

・不特定多数の世間の人の目にさらされ

かつ

・匿名の無名の世間のやつのSNS声とかがなぜか聞こえてくる

そんな「衆知の人」である機会などは

平民小市民にはそんな機会はないのであって

そんなケースをもって

「生活実感からはじまる疑問」などをそれを聴いて読んでふんふんと

言っていていいのか

 

とオレが思うのだが佐久間Pなどは

宣伝のためだろうか若林とか星野の言うことは世間全体にも言える話だ

というのであるが本当だろうかそうではないのではないだろうか

 

というところを考えていたのだが

 

同時に自分がnote

に書いた文をよみかえしていて

仕事

なるものはぜんぜん重要じゃない(概念として)と

言いたかったのだが

どうも途中から勢いが削がれてきたというか

ねたきりならいざしらず

うごく人間はなにしろなんかしているしなんかしていないと水がくさるし

そうなると仕事くらいしかすることはないのではないか

仕事くらいしか「他人とかかわる」ことは無いのではないかとさえ思えてきて

 

もっと「人間と人間の社交」があってもいいのではないか仕事ぬきで

思ったりもしたのだが

英国の社交はあくまで近所の生活レベルの似たような

やつら同士の社交であってなんでもかんでも社交しているわけではなく

むしろ日本人のドライでつめたい社会とのかかわりかた(なるべく

他人とはしゃべらない令和)

のほうがかえって合理的で犯罪を減らす効果があるのではないかとさえ

思えてくる事態である

 

生活実感というのは連想ではスーパーで買い物する感覚ではないかと思うのだが

それはスーパーでありスーパーマーケットストアであり

基本女のいくところ

とか思ってるやつもいるくらいのそこであり

 

社会はなかなか変わらないしこの閉塞感しかない令和日本では

ますます「かわる」ことを恐れたりなじったりして

このままでそのままで壊れかけの機械もそのまま延命させ

こわれかけのシステムやトイレや冷凍機をそのまま延命させ

いつでも壊れうるままにしておくのが

唯一の策だみたいになっちゃって

 

資本主義が止まらないのと毎日飯をくうのは別のことであって

資本主義は毎日のメシをどんどんグレードアップさせよ

というのだがメシなんか毎日同じもの食うにきまってんじゃん

奢侈な消費とメシは相性がわるいんだよ

 

だから資本主義がわるい

 

金なんかあったってどうにもならんのだよ

 

じゃあ人間か

 

人間もどうにもならんしなあ

 

生活実感

 

若林が対談で妻が沖縄の人で

といっていたが若林はラジオで妻のことをどのくらい語って

いるのだろうか?ちゃんときいてないからしらんけど

 

同じく週刊文春しずちゃん

蒼井優ちゃんのことについてすこし対談で語っていたが

山里氏もまたラジオでは本当に

会話を語っても

蒼井優ちゃんについてを語ることはないからなあ

 

当たり前といえば当たり前

 

こっちはやじうまのぞき魔の出歯の亀であるから

しりたいわけよ

無遠慮にも

しりたいわけで

ああ醜いねということだ