6月14日(金)

ファンキーーーフライデーーー

 

ですわ

 

金曜になった(やっと)

 

なんでも30年である

 

郵便料金30年ぶり値上げへ(’2024 10月)

封書84円から110円へ

(だってさあ~62円から84円になったのをオレは

つい昨日のように覚えているんだぜ)

 

それこそダグラス・アダムスが人間の年齢と「新しいテクノロジー

のうけとめかたについて書いてたように

新しい曲をうけとめるかどうかの年齢の条件のように

旅にもういかなくていいとか言いだす年齢(そもそも旅しないやつもいる)

読書でフィクションをよまない・・・

それは年齢じゃない 若いときから読めないやつは読まない

 

なんかねえ

・年月をたとえば30年経過したということを30年という

Volumeをそれにみあった形で認識の中に組み立てることが

いかにこんなんか

・30年あればアカチャンがおっさんになるというのにオレは

30ねんまえを脳の中では「昨日」レベルで認識しているのだ

・1994か

・それこそ記憶の中に大学卒業あたりのまったくVISIONのない日々(ない

ことを恐怖ともおもわなかったような年月)が

ちゃんとあるような薄いようなでもあるように感じるのである

・しかし1994には

オレはPerfomaをもっていたとは思うがそれで毎日ネットを

みてみたいな習慣はなかったのである

・だから

携帯電話もなく友人とは固定電話で連絡とるか直で会うか

くらいしかしていなかったのである

・友人がいた!近接して!

 

まことに

 

そのこと(友人が近接でいたこと)自体がもう信じられないレベルでの

なんか異世界である

 

そう

30ねんは「異世界転生」と同じくらいの遠くなにか別の世界に

ワープ

したかのような

印象をオレに与えるのである

ほんと

認識上ではそうだよ

なんでオレはいまこここんな地方都市にいて

アパートの家賃をはらってのうのうと生きているのだ?>?

思うじゃないですか

 

あるいみではよくもまあ

チュウヅリ

宙吊りな「日常」をすごして

いられる

なあ

と思うじゃないですかあ

まあ30年まえのオレがいまの54歳のオレをみていったいなにを

言うのかわからんですが

30ねん前だって髪は薄かったしね

 

だからその30年は結局友人から離れていき

自分の認識と身体のことを主に

関心領域としてすごしてきたとしかいえない

それこそオレが「代償的」に書いたことそのもので

なにも考えずに日々のバイトを過ごしているといつのまにか

長い時間が経過しているというのがそのありかたで

それを「勿体ない」とは思わないのがコツで

もし勿体ないというのであればそれは「外に(ほかに)長い年月と

労力をかけて達成したいことがあったのにもうはじめてもまにあわない」

ということだろうてが

しかしそれは実際には「勿体ない」ではなく「選択ちがった」でしょうて

 

選択ちがったのを後悔とかするのはいちばん無益で

なぜならそれこそ若さなくしてできないこと(たとえば30年ローン)

があったならそれはしょうがないの類で

それ以外は「いつからでもできること」なので

という風に考えることにしたわけだいつしか

オレはそっちに傾くようになって

だから書くをやってるわけだが

本音で「むつかしいねえ~~」とも思っており

だからこそ店とか移住とかも「代償的に」やろうやろうと

思っているのも事実で

でも書くのをやめたいわけでもないので

そもそも「賞」だけが書く理由だったら当然全員

くるすくなっていってもうやめるになるよね99%は賞なんてとれないわけだから

でも

書くやつがたくさんいるのは

賞を獲る以外の理由があるからだと思うのですよ

それは

なにかが明らかになること

であって

それは書いた人にしかわからんのことよ

思うのであった(強引なしめくくり)