苦難

自分がなんらかの苦しみ(いわばこまりごと)を抱えている

ときこそ

他者の苦しみ(困難)に目がいくのかもしれない

 

(なんというか逆に自分が困難と直面しているとき

になってはじめて「この世にはたくさんの種類の困難がある」こと

をやっと思いだして そこから他人様もまたどこかでたくさんの種類の

困難と直面しているのだという他人への想像力を思いだすことがある

くらいもので

うまくいってる自分というのはたいてい自分のそのスコープが

あまりに射程がみじかくビューも狭いので

自分のことくらいしか認識のうちになくて

他人のことへの想像がはたらかない

のだろうと思う(他人への想像は訓練するしかない)

他人との会話やきっかけやつながりをつくる行動も訓練なら

想像力もまた訓練 )

 

 

それこそ

長崎市長発表によればガザの攻撃をやめようとしないイスラエル

長崎原爆投下の日の式典に呼ぶのをやめたら

G7(日本以外全部)とEUのすべての国の代表が

出席をとりやめたというが

イスラエルを擁護できる要素なんてなにもないのに

よくもいけしゃあしゃあと言えるものだ

というのがオレの意見である

殺された人はもうなにも言えないのだ

 

ちきりん氏が南アフリカの旅のレポをあげていて

いまだに住宅格差など黒人の苦難はつづいている(構造的な

ものなのか)

 

家父長制とかその残滓とか

人間の意識もさっぱりまだまだ変わらないし

 

ウクライナロシア戦争はぜんぜんまだまだ続いているし

 

我々は戦争をやめられないしちいさい人間関係の攻撃もやめることが

できていない

 

どこでもなんでも

 

ともあれいまできることは他者もまた苦しむ人

がいるということをオレはそこに目を向けることができる

ということなんだがこれは

なんらかの形で外に出す必要があって

 

あるんだと

思って

いる