秋がキタコレ。
自分の場合秋がきたかどうかは夕方で決まるのだが夕方に職場を出てさておっちらせと家に向かって歩きだしたときの空の具合と湿度のくみあわせが秋だった。わかりにくい説ですまぬ。しかしそうなのでそうなのだ。朝晩の冷え込みは別に夏でも朝晩涼しいのでいいとしてやっぱ夕方である。
夕食はもらいものの胡瓜を中華スープで煮込んでいわしレモンスープとともに食ったがいつまでこのもらいものの胡瓜を食えばいいのだろう。どうしておばさんは胡瓜をおしつけてくるのだろう。もちろんそれは食うのだ、こちとら貧乏人で食費はけずりたいからな、だから食うけど、そもそも他人にもの・金を「あげる」という行為のいやらしさよ、おぞけ、オレは大嫌いなので他人にものをあげることはしないしもらうのも極力さけているがおばさんはそんなの関係なしにおしつけてきやがる、そのくせこっちが、こないだポカリを4本もらったので職場で人数でわけようとしたら拒否しやがったので、こっちももう胡瓜は食わんのでいりませんと拒否すればいいのだが、拒否したときに言い返されて論破する自信はもちろん無いのである、なのになあ。
とにかくものを他人におしつけるやつはオレ認定では世界最低だ。自分の最低さをわかってないという意味で真の最低。声を大にしていいたい。そもそも贈与とは権力行為なんだよ。オレ政治学科行ってわかったのは権力ってなにかってことくらいさ。いや俺はぜったい胡瓜の恩なんて感じてないし恩返しなんてしないからな。あといらなくなったらきざんでトイレに捨ててやる。俺は農民じゃないしくいものを捨てることに躊躇なんてないんだ。
というのはうそでだれでもくいものを捨てることには躊躇がある。というかおばさんはいらん胡瓜を他人におしつけることで「自分がそれを捨てるという行為を回避」しているだけなのだ。よって回避に協力している自分は、ありがたくもらってやるてなもんでいばってもらえばいいのだ。おう、オレが貴様に、苦痛からの回避をもたらしてやる。ありがたく思え。
とか書いてたらヴィンランド・サガ4巻の最終話とか思いだしてしまった。まったく死は福音である。やる夫がフューラーになるようですの5章のつづきが出てこないなあ。