いいわけ
えーと。自分がエロマンガについて書くということをはじめたばっかりなので、何を書くか、ということがはっきりしない。
たとえば、そうと意識したことはないがまあとにかくハローについてはさんざんここに書いてきたわけだ。方針などなしに。そのときそのときで、好きなことを書いてきたわけだ。と、かんたんに「好きなこと」というが、当然そこに個人としてのバイアスはかかっているわけである。何がすき、誰がすき、どんな風が好き、どの曲がどのダンスがどのしぐさがどの言葉がどのリアクションが。そういうのを細かく細かく書くだけだって「好き」のつたわりになる。娘。アンテナにあるところの多くのたくさんの日記たちの大半がそうだと思う。
 で。
 おなじことをエロマンガについてやってみるというのがどうもそれではいかんような気がしている。
 結局ハローのアイドルの皆さんは「被創造物」じゃないというスタンスでやってるからだ。タモリさんが赤塚さんに対して「あなたの多くの作品のひとつ」という名言をのこしているが、それはそれとして、ハローのアイドルはつんくの作品か?
 そうではない。
 彼女たちは皆それぞれが自分の考えをもつ個人であって、個人が自分の「自分を表現して自分というものを客の前に晒しだす」という活動をしてる。それがつんくとの協同作業なだけである。
 だから基本的に、その子のあらゆる細部を、書く方(オレ)の主観でいろいろ「こんな風に見た」ことを書くことで、その子とオレとは一対一になれるわけだ(日記の中でだけ)。
 
 キモいのう。極限をめざしていかないと。
 
 しかしエロマンガはあくまで「作品」であるし「被創造物」である。だから建前としてはそのマンガは120%作者の思い通りになっているはずである。すみからすみまで作者の意志が貫徹されてるはずなのである。(編集者というものはここではあくまで協同作業者にとどまるものとします)
 それだから技術とか画風とか、ストーリーの傾向とか、描写の傾向とか、描かれた女の子の細部、どうしてそういう風にしたかの考え、について考えないと、日記でそのエロマンガに触れる意味がないような気がするのである。
 ただ「ここがスキ」なだけだと、言葉どおりの意味で「ひとりあそび」に過ぎないような気がする。つまりアンケートとるような「このシチュがオレはスキなんだ」だけである。それだけじゃいかんと思うのである。
 
 なんかねえいろいろ考えるのですよ。たとえばコミケで買ってくるようなオリジナルの「男性向け創作」を読むのと出版社から出てるコミックスのエロマンガを読むのとでは、全然違うのである。
 
 そういうことを考えてみたいんである。
 
 話が変わるがさっき読み終わった。

百舌谷さん逆上する(2) (アフタヌーンKC)
 すごい困る。なぜマンガがおもしろいのか。なぜこのマンガが面白いのか全然説明できないからだ。
 しかしすごく興奮した。エロマンガを読むときの脳と明らかに違う脳の部位がすごく興奮している。
 こういうときに、うまいレビューを読むと、「ああ、オレの感じた、モヤモヤした興奮というのはこういうことだったんだ!」と、スッキリしたような気になってすごくうれしいものだが、オレの理想とするレビューってゆうのはそういうかんじの文を書くことである。
 なんか人間というのは「モヤモヤしてよくわからないことにラベルをつけたり合理的な説明をつけたりする」ことを脳が必死にしているとのことである。あってるかまちがってるか、関係なく。とにかく脳というのはそういう傾向の作業を勝手にやっているのだそうだ。
 百舌谷さんが自分の頭で考えていること、思っていること、の分のネームがものすごい分量で、ただでさえ黒く埋め尽くされた線の多すぎる「黒い」絵柄に加えてネームだらけで、それがほとんど全部百舌谷さんが自分に対して「いやいやそうじゃなくていま自分がこんなに興奮しているのはあの酢豚のことがすきなんてことじゃないんだからーーーーーー!!!!!」みたいなことばっかりなのである。
 それが「ツンデレ」という病気のせいという設定自体は1巻ではたっぷりあったが、いま、2巻ではもうどうでもよくなってきているように思う。
 どうすれば幸せになれるのかを探究するのは永遠のテーマで絶対にあきらめたらいかんのである。