よる

そんなこんなで本日も日曜日が終了した。
 
「北の無人駅から」を延々と読んでいる。雄冬への取材にいった著者、一人で民宿に泊まる困難について書いている。一人客はマイナスだ、と。
 そりゃそうだ。
 困ったもんだ。
 
 なんかインド旅行を思い出すわ。別に一人だろうとなんだろうと部屋はあるしどうでもいい感じであった。
 
 Digの話。週末はまとめて、まだ聴いてないやつを聴いてるわけだが、月曜の竹山氏のとこで電話で直に話すやつ。中年でアルバイトしてて放送作家志望ってやつが出てきた。やけに明るい。
 しかし彼に未来はない。
 放送作家なんて、こんな、バイト3つかけもちしてるようなやつが、できない。
 彼は結婚は諦めているというか他人といっしょに長時間過ごすのは無理だと言う。
 一人でいきてく覚悟があるならずっとバイトでいいんじゃね、と竹山氏は言った。  
 まあその通りだ。
 
 でもその人生、つまんないかね>?
 
 つまんないかどうかは本人次第だ。つまんないという評価を下すのは本人であるし、本人がつまんなくないというなら、それはつまんなくないのである。充実してるともいえる。
 
 これが価値の個人による裁定である。
 「誰もがそのものさしで測るような、価値の一元配置」など、どこにも存在しないという、立場。
 
 もちろん、もし、「一元配置」で測るとすると、彼は、「失敗、敗者、堕落、不出来、最悪、未成熟、無価値、屑」である。よしとされている価値を何一つ達成していないのだから。
 
 ここで「よしとされている価値」というのがくせもので、これは、バーチャルに、各人の意識の中に植わっているなんか萌芽である。他人から植えつけられたのだ。
 それは「子孫ものこせないようなやつは人間の名に値しない」とか言っている。
 「みんながしていることが、いいことだ。みんなのなかまになっていないものは、わるいものだ。」と・言っている。
 「みんながするようにしたらいいのだ、ひとりの考えなどはろくでもないものに決まっている、きかなくてもわかる」と言っている。
 
 こういうのが、おそろしい。
 
 というのがオレの考えだ。オレがこの日記で一人称をオレという言い方にしようと決めたのにはわけがあり、それは、オレはオレのためだけに日記を書くし、そこで考えていることはまったく公共性も公理もなにもぜんぜん関係なく、オレが生き延びるためだけにある、 
 ということだ。だからどんなやつでも生きていていいし制度は最大限に利用しつくしていいのである。
 
 (大衆における)価値なんてころころ変わるのだ。本当に。
 
 2010年時点で原発反対運動を必死にやっている人に向けられてる目線と、2012年の目線と、比べたらええわ。オレ自身の目も含めて。