そこでオレが気づいたことは
まああれだ
恋愛感情の「好き」と
恋愛感情ではない「好き」
がある
どっちにしろ「好き」がなければ
その「ボスのためにならそれをする」「メンターのためならそれをする」もないだろう
組織そのものというよりも
組織イコール自分の家とか家族そして
それをまとめているのがボスみたいな
疑似家族ではなくてみたいな
もっとなんかこうあれで
深いのか
どうなのか
そういう気分になったりするんだろう
出世がなくてもね
昭和のサラリーマンは呑み歩きなのでそれは違うぞ
くべつしたい
あといまやっと100分で名著の104のブルデュー
ディスタンクシオンの4回目をみていて
なんかすごく気になることを言っていた
「社会からおしつけられたそれを自分から自分であてはめてしまう」
というやつです
これを称して「他者の合理性」というのか?
それとも違うことのキーワードなのか?
オレが想像したのは
「しょせん売春婦だしそれ以外できないような知能のひくい
女なんだからバカなんだろう」と何もしらない他人が言うときに
それをきいて売春業をしている女性が自分について
「つまりあたしはバカだからなー」と自己認識をバカというラベル
貼ってしまうことなのか?それによって
バカであるから不利益をうけることに我慢してそこから抜け出したり
闘ったりすることをあらかじめ諦めてしまうようなことなのか?
たとえばギャラの搾取とか?
ちがった
「おしつけられたそれを」の話と
他者の合理性
は
別の話でもう別のことに移っているのだった
岸(断片的なものの社会学」)が言う「他者の合理性」とは
「他者には他者の理由があってそうしているんだ」という
他者についての想像力を働かせようという話である
社会学とはつまりそういうことなんだと
他者になって「オレがあの人だったら」と想ってみよう
ということ
録画消さないでとっておくもんだね
社会学ではなくても
オレはいまでもメンターのことを考える
つまり「〇ならばこの今の事態をどう考えるだろうか」みたいな
ことです
想像力
考えるのはつながりがひろがって面白い