『一六世紀文化革命』
魔女とされた人は女性
というか「妖術を使う」とされるが
薬の知識とか初歩の医学
とされる「手仕事」技術と知識と経験
が
当時(何世紀?)
の世相文化では
「卑しい仕事」とされ
大学の神学部法学部医学部があったとしても
医学は古代の医学書を至上のものとして
文献学にとどまり
手をつかって人間にさわることをせず
そのため知識も技術もたかまらず
実際の医療としてはなにもできない人
卑しい職とされるわけだが
卑しいという決めつけがうまれる
のもある意味奇妙というか
人間社会
「身体はどう変わってきたか」のほうはこれからよむ
オレの思うところは
・「変わっている」すこしでもなにかがセンターや標準や平均ぽい見慣れたものと違うときに「おまえは〇〇だ」といって集団から排除しようとする心性は
変な「理由」をつけるわけだが
その理由が「魔女だから」とかいって「魔」だってさ
鬼とか魔法とかミラクル(きせき)とか
最初にいいはじめた人だれなんだろうね
奇跡というのは神が行うもの
と言われていてそれ以外の場合には魔法妖術だとされるそうだ
つまり「治癒」は神が行い「変化(へんげ)」は妖’(あやかし)のものが行う
とな
結果(怪我がなおるとか)は同じなのにね
・なぜ「魔男」ではなかったのか?女が色っぽくて柔らかく暖かいために男がメロメロになるそのメロメロへの変化をもってアヤカシの術であると見まごうたか?
・だかしかし医療というのが「何をする」ことなのかというのは現実的には大昔も今もたいした変化はなく
人間は死ぬし
怪我は本人が治せれば治せるしそうでない人はそうではない
本人の体力や免疫力やその他のもの
以外で
外からできることは
保温清潔
だけである
デブリードマンのような外科処置は
それはしたほうがいいとされるし
そうだろうけど
それだけのことだ
縫合はおさえてとめておくだけの技術(だが有用)
化学的な「薬」が
どんなものであろうと西洋医学だろうと漢方に代表される中華の医学でも
どんなものでも副作用は必ずあるというのがさもありなんで
古代からあらゆる人体実験を行ってこれはこういう効き目があるけど
こういう副作用があるというのはわかっている
中華の医学のよいところはその薬を少しずつ長期にわたって服用させることで副作用を低減させながら作用をもたらすこと
と
あとは鍼による鎮痛の技術でしょうか
そう考えればリハビリテーションにおける
「動かすことで改善させる」も
効果が出るまで時間がかかるがそれによっての効能はもたらされる
タイプの技術である
「身体はどのように変化」の面白いところは
身体そのものはたぶん人間としての種の中での変化は
それほどではないはずなのに
扱い方やとらえかた(認知)が文化的にはひどくたくさん変化
したのではないかというところではないか
何があたりまえで何があたりまえではないのか
それは「型」として社会のスタビリティのベースにある
我々はバカバカしくもそれからなかなかのがれられない