書評たち

『ヒカリ文集』をよみおわったので

週刊文春にのった綿矢りさによる書評と

文學界にのった佐々木敦による書評を読んだ

(’そのためにとっておいたのだ)

 

もちろんオレは綿矢りさの書評のほうが好きである

佐々木のは長いわりには論じようとしている

綿矢のは論じようとはしていないように読める

じゃあなんだ

 

なんだろうね共感というと味が薄くなるような気もするが

最初におもったのが共感なので

しょうがない共感ってことにしようオレが感じたのを

 

書評もまた共感があったほうが面白いのではないか

 

外から論じるのが書評だとかくそくらえであって

 

別にテーマがより深くなったとかどうでもいいのである

いや

その人にとっては深くなったことが重要なのかもしれないが

 

オレにとって大事なのはその小説に描かれたことが

それは誰のこころにどのようにひびいたのかが大事なんじゃないのか

ならばそれはもう書評ではないなら書評じゃなくてもいいじゃんね

だってオレは綿矢の書評を図書館で読んで

それでこの小説を読もうと思ったんだからね

 

となるとオレがファンであるということにもなるが

ファンでなにが悪いである

 

正直にいえばそのようにヒカリのように

ほんとうの愛ではないのに優しさをふりまくことが

できる人は心当たりがあってオレは実在の

人物の姿をおもいうかべながら小説を読んでいたのだが

 

なんでもいいんだよどこに飛んでいっても

ちらばっていってもそれは小説のイメージだ

 

だしょ