5月30日(火)

そもそもで言えば

「オレがおかしいのではなく社会のほうのありかたがこんなだからいかんのだ」

というのがオレのほうの一般認識でありまして

 

だからこそ「オレこそが世界でいちばん世界をよく認識している」

のである

しかし社会のほうは体たらくであり

こんなにも機能不全で

かわいそうにね

みたいな気持ちである

 

こういうのを誇大妄想狂とかいったわけだが現代ではその用語は

あまりに杜撰なのでつかいにくい

そんなことばつかってたら人格まで杜撰な人と思われるわ

 

とにかくいまある人間の社会は

なりゆきを積み重ねてきたらこうなっちゃった

みたいなもんで「理想建築設計をしていてその途上」ではないのである

だれもマスタープランをつくっていないし

合意していないし

神のマスタープランもないし

あきれたカオスであるが

 

そもそも自然NATUREそのものはあきらかにコスモスなのかカオスなのか

言えばカオス寄りであり(デビルサマナー?)

 

くるっている

 

のである

くるった世界

 

しかしここにコスモスというアレがあり(ビジョンです)

コスモスを見た人は観察をおこなって天体などが

そのように運航していることを

最新機器による観察(天文学)(そして物理学)

してみてびっくりしてどうしてこうなっているのかと

まず最初に観測結果を疑ったりして

最終的に「こうだ!」というのをケプラー氏がどうにかした

というのがオレのいまんとこの理解である

 

科学の考え方というのはそういうふうにあとからやってきた

というイメージ

 

その前に何があったかといえばもちろん

神(宗教・信仰)ー文学(心・人間の・苦悩)ーなにもなくなる

の三段階のうちの1つめの神・信仰があったわけで

そこにあったのはかなりつよい神のマスタープラン仮説だったわけだ

 

人間の考えの方式というのはおもしろい

なんとかむりくりおさめようとしている

 

また貼るけど考えの系譜というのがつまり哲学であるのだけれど

ずっと神にすべてをまかせて

おけなくなって以降(「楽園追放」)の人間のStruggle

は哲学の系譜という形をとって続いているのである

文字や口伝でのこっておるものも

そうではないものも

すべてを含めてね

 

こういう方がいらして

la-ad.net

 

「考える」ことを考えるタイプの世界把握をすすめていく

場合にはどうしても始原とかいちばん最初とかに立ち返る人はこういう

体系をつくって記述することそのものに快感を感じる

すくなくともオレはそうだけど

 

しかしやはりちゃんとした「講義」をする学問の人は

そこはおさえるべきものを抑えてあるし

しかも押さえてあるわけだ

なにかといえば「はじめに」を読めばちゃんと

なぜ考えることを考えることが重要かということの

背景には「他人(と議論する)(へ考えを伝える)(との間で未知なるものを)」

未知なるものを理解しようとすることの「考える」ことは必ず他人へと経路がつながっていることを書いてあるのである

それすなわち社会である

 

スピノザが蟹

いや

神について考えそして考えて書いたことは当時の神を

冒涜するものととられ

かんじで排斥とか受けるわけだがそれでも学問として神を考える

ことをやめなかったし他人への回路もちゃんとつながっていた(そうでなければ

出版しようという意思を持ち続けることなどなかった)

のである

つまり「他人といっしょに書く」「他人といっしょに読む」ことを指向していたことは明かなのである

すばらしい

 

すばらしいと思うなら社会をちょっとは受け入れないといかんわ

いまあるものをありのままとはいわないが

アナキストだって全社会を全破壊したいわけじゃあるまい

そうなの?