時間は「知覚」できるのか?できているのか?
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/48130/files/A32354.pdf
主観的時間知覚に関する 多感覚処理メカニズムの研究
]
たぶん心理とか神経科学の生理学とかのなんかの人の論文
なので理解することは難しいが
1種類の知覚ではなく
モデルをつくるときに知覚とはどんなものでも脳内の複数部位
からなるネットワークをもって処理しているようだという
考え方がおそらくは業界のベースにあるんだろう
オレは目=視覚 肌=触覚とか温痛覚とか
みたいなどこかのなにかで「時間」を担当するところは「無い」とする
立場なんだがそれは別に根拠ないからなあ
「ある」といわれたらその根拠を聞いていかないとなあ
ね
ただ
やっぱりその
マルチというか
いやさ
ある「こと」を知覚するための脳の使われる場所がたくさん複数あって
脳は機能局在というところと
ネットワークを使用してひとつの機能を達成する場合と
どっちかというと局在といういいかたのほうが原始的というか
ペンローズの図はあれはその当時の最新であるが
いまはそのまま適用するわけにはいかないんだろうなあ
時間
時計
時計の機能は外延化された脳と考えられないかい?(’オレはすぐにこういう比喩とかなんかロマンある非科学のほうにいってしまう)
適度な引用
”視覚や聴覚などの複数の「手がかり」を利用して出来事の情報処理の結果として、時間知覚は成立すると考えられています。 たとえば、認知される変化の数や、記憶貯蔵庫内での蓄積容量が、それぞれ時間知覚の基礎であるという理論が提唱されています。”
出典は
時間の心理学 | 文部科学省後援こころ検定、心理カウンセラーなら通信講座のTERADA医療福祉カレッジ
です
やっぱ心理学領域なんだよなあ
まあ本来の意味での「実験心理学」からいえばそうなんですけどね
文学のあつかう「こころ」からの知覚ではないからねえ
もちろん時間なんてのは「気がついたら死んでいた」のが理想であって
老いとか自覚するのは自覚したくはないと思うんだよね
老いたから「えらくなった」わけでもないのだから
そうそう
記憶は象のごとく蓄積をとはいかないんだよね
すぐわすれる人間