4連休ののち、今日仕事にいくとこれがまた感覚が戻らなくてこまりた。突然外来が飛び込んだりしてこまりた。ウソ800でのりきる。ヒヤヒヤする。
ところで話かわって。
私は、なにかを主張するのであれば、それが正しかろうと邪であろうと、自分が主張したいのであればそれをするのがいいと思う(自分で主張するからといってすべての場合で自分が正しいと信じているわけではないと思う。主張と信仰は別の話である・・・がそれはさておいて)。ただし、主張はできるかぎり一人ですべきだと思う。
たとえそれが「正しい」ことを主張するのであったとしても、みんなで言うのではなくひとりで言うべきではないか。正しくないと知っている場合にはなおのことだが。

何の話かというと、正しいかどうかなんて判断の基準としてつかえねえ、というレベルの話と、あとは「主張する主体の数によって正しさが損なわれる」というレベルの話と、二つある。

 正しいかどうか、ということを一人で決めるのは、無理だ。原則として、自分だけがそれを正しいと信じたり、考えたり、そうしている場合には、自分が狂信者であることを、狂信者と他人から思われるということの可能性を除外することができない。だから、正しい、という確信を、主張するという行動の準拠として使用するのは、あまり適切ではないといえる。

 しかし。じゃあ何人が「正しい」と同意したならば、「本当に正しい」ことになるのか。私の考えでは、何人いようとも、それが正しくないという可能性を排除することはできないうえに、数が増えるとそれだけ正しさのスコアが下がるという逆説を見ることになると思う。
 要は、正しいことでもおしつけたらいかんということを言いたいわけだ。数が多いと、正しいと正しくないとにかかわらず、ある意見を、意見を違える相手に、おしつけることができる。おしつけて、その通りになったとしても、だから正しいとはいえない。

結局正しいということは「何の役にも立たない」ように見える。
真善美というが、真実であるということ、善いこと、美しいこと、は、それぞれが各個について「決定」する基準をもつ。真実であれば論理を、善であれば倫理を、美であれば感覚(センス)を。
この3つの中に「真理」ははいっていない。しんりは、はいっていない。
(追記・「真理」というのはオレ的考えでは「その人にとっては正しいといえるような、二つ以上の物事と物事の間の、関係・状態」であり、「真実」というのは「誰にとってもその適応以外の組み合わせは間違っていると言えるようなただひとつの対応」である。が、こうやって定義をつらねていく方法の限界はとうに知れているのであんまり深くしない。ただ、こうやって書いてみてわかったが、オレの中での「正しさ」というのは、常に揺れ動くものとしてあるようだ。)


えーと何を言おうと思っていたかというと本当は
「無関心ではない、という方法で、ひとりで、連帯もしないけど、リンクでチベット支援ができるならいいかもしれないなあ」と思ってたことを書こうと思ったらこんな文章になってしまったのだが、いちおう無責任にもアップする。
なにかを主張するんならひとりでしたいんだオレは。

ベリキュー!をまとめて見ているが、この料理シリーズおもしれえなあ。みや・もも・ちなみの3人組が基本的にものすごくアホであり、アホの子ゆえの面白さ。予想できない発想の展開。このへんが℃-uteにない部分だなあ。野生の思考。