よる

なんとなく腹が快適ではない。たぶん食生活のせいだ。
 
「とにかくかわいい」
菊地成孔、粋な夜電波、語りによるCM.キティちゃんの大きいピアスに見えるおしゃれヘッドホンなんてあるのかね。
 
 とにかくかわいいのはいいことだ。
 てへぺろ
 ぴかしゃさんは何歳でもかわいい。この日記にぴかしゃさんが出てくるとはねえ。
 
 かわいくないものに、なんだかんだ理屈をつけて、自分にウソつくのはよくない。
 かわいくないって言ってやればいい。かわいさは年齢ではない。
 
 菊地さんの日記は長くてよみごたえがある。少なくとも誰に向かって書いているのかよくわかる。オレの日記は、もちろんオレに向けて書いているのである。
 
 そこでもう一度オレに向けて言うが、オレとしては重要なのはかわいいものを正しくかわいいと言う態度である。そうでないものは排除だゴミ捨てだ。これは大事なことだ。部屋の片づけだって諦めていない。諦めるものか。ときめきが生活をクリアにするのだ。
 もちろんオレは毎日迷って困って愚痴って腹を下しているのだが、だからといって諦めているわけではない。そうだった。思い出した。
 だから真にかわいいものをかわいいであると言ってやりたい。いったんトイレにいこう。
・・・・・・ 
 いってきた。
 
 やはり人間というのは独特な動物で、「頭で認識を整理する」ことを必ず必要とする、そしてフォーマットをつくる、意識・無意識に関わらず。それは無意識にもしているし、意識的にもしている。
 他人に対してのラベルをつける。こいつは敵、こいつはけっこう味方、こいつは中立、などなど。
 自分から見て他人のこの人は対象として波風たてないことが必要、こいつは波風たててもいい。
 スタイル、立ち位置、どこにするか、信用を得ていないとできないことは何か、
 他人から何を言われると傷つくのか、
 したいこととしたくないことは何か、
 優先順位は何か、
 他人にどういう言葉をかけると「おそらくこう思われる」だろうと思うからそういう言葉をかける、つまり目的ある行動、
 などなど。
 
 結局ぜんぶ人間関係にオチるわけだが。
 こういうことを、全部、しないというか、捨ててるというか、できなくなるというか、それがおそらくは高次脳機能障害ではなかろうか。
 脳が深刻な機能不全におちいって、そこから回復する、しかし、「運動機能」が回復するのと、精神的に「気にするポイント」の変化とはまた別の話だ。
 つまり気にしないのだ。
 
 まあオレもいろいろ捨てたいのだが、なかなか、たとえば他人と比較してどうだろうかとか、親はなんというだろうかとか、オレからみてオレのこの行動はどういう評価だろうかとか、思うわけだ。オレのオレに対する評価はかなり甘い。
 甘すぎる。
 何をしても、「それでいい」と思っている面がある。結果すべてオーライみたいな。
 しかしそういう意味で、人間関係の面倒な部分はとにかく切り捨てる対応である。だからメールは迷惑ものしかこないのである。
 あまりにこないので、せめて冠婚葬祭には顔を出そうと思っているが、面倒だ。
 
 他人からどうおもわれても構わないと真にそう言える人はそんなに多くないだろう。
 
 だがかわいいものはかわいい。