ゆうがた

本気でやるということについて。
 まなめさんから。
 なんであろうと、人間が本気でやることはそのままで立派だ、人のおもわくなんぞ気にするな。by 山本周五郎
 
 である。
 ブログが復活した店長の日記みてても、なんか仕事が熱中である。どこにもない過剰な店をつくってやると言う感じである。言う、であってる。そしてバイトが長続きするし戻ってきたりする。部下にしたわれる店長ってステキだ。
 オレにはできない。オレは他人をなんかするのも他人になんかされるのもきらいなのだ。
 そういう人間が組織で働くのはおかしいよね。 でも能力が低いからまだ個人でできないのだ。 
 しかし諦めていない、本気でやることとしては。
 
 やっと今週も仕事おわった。
 
 旅行の計画。青森旅行。行きは飛行機とってある。12/21よる。22と23は二日間青森・十和田、などがゆっくりである。24、青森を早朝に出てずっと普通列車乗り継ぎで長岡まではこれる。(もしできるなら18きっぷ1枚持っているとなおよい)。長岡からなら新幹線で佐久平まで帰ってきていい。
 これはいい計画だな。
 
 なんなら鉄道のりまくりの年末年始をするという手もあるのである。。。。。そんなに優雅な時間は無いか。ないな。
 
 さて、「決断というか決意」がなかなか固まらない、木工用ボンドのようなゆっくりした固まりかただ。でも重要な問題はそんなに瞬時に決められないということがわかった。
 それでも固まった。転地はけっていした。移る希望があることを上に言って、言った結果がうまくいけば移るし、ダメならあっちのあたりで新たな職場を探して移るというものである、そして期限は2014の3月末と決めた。まあ診療報酬改定(二年に一度)の区切りなんだけど。
 ちょうどいいのである。クライアントで長い人もいるが区切りで強制終了は決まっているのでそこまでの義理は欠かないでいられる。
 あとはそこまでのあいだにいろいろ体制をつくっていくだけである。
 
 そう考えると、これまでの生のいろいろな決断で、じつは後悔したことは、あんまりない。
 個別の事案についての後悔が無いという意味である。
 
 全体としては「いまの今生の生とは違う生」がありえたのではないかとも思うが、このオリジナルなオレの性格はオレによってあと環境によって形つくられたのであり、それでいうと「他の生」は有り得ないともいえる。ありえない。つまりかならずこうなるのである。結果としての必然。
 
 別に新天地が楽園であるなどとは全く思っていないしこういう医療福祉の現場というのは日本中であらゆる矛盾とか建前と本音の乖離など、問題はすべての現場に山積している。
 
 それはべつにいい。それよりは、「もうここには永遠にはいなくていいのだ」と決まったことがうれしい。なぜならば、いなくなることを前提にして、未来のことを気にして言えないことでも言えるようになったからである。つまり気まずくなることを気にしなくて好きな自分の意見とか他人への好意とか言っていいのである。ここにも何人か(日記に登場するかわいいナースちゃんとか)オレが好きである人がいてそういう人とは話したいのである。ちょっと深い話を。
 それをもちかけてみるだけでもいい。結果は知らない。話せたら幸せだし、話せなくてもオレには失うものがなにもないのである。素晴らしい。