(昨日のつづき)
それでもうひとつ思うのは「山の奥のほうに住む人」である。
バスも通わぬ。いや、朝と夕方に一本ずつあるんですけどね。そこにいくまでの。
しかしまあ。通わないよ。そして道はせまく、くねっていて、オレの軽バンでもちょっとイヤな道で、たまたま対向車こなかったからいいけど、きてたら、これ、すれ違いのために戻るのどんくらい?って感じで、まあきつい。カーブのたびに、設置してあるカーブミラーをじっくり見て、ああ来てないなって安堵してその1秒後に次のカーブである。そんな、アップダウンもきつい道、
そこを歩いている人がいる、ふつうのおばちゃんであり、ふつうのおっさんである。
家に帰るの?どっかいくの?
ともあれ自家用車ではない通行手段である。すげえわ、なぜそこまでして山奥に住むのだろう。そこが先祖からの土地であるとか、まあ、そういうことなのかなあ。もちろん、集落はいちおうあってそこに田もあるし農業機械もあるんだけどさ。小学校もあって。全校児童12名。といっても去年は9名だったんだけど。
廃校にならない理由は、スクールバスでまちの学校に通うにしても道路がきつすぎるからだと思う。というか。
うーむである。
まああの集落、あっちからいく(くる)道もあるんだけどな。あっちのほうが道いいのかな。
どこのことかわかんなくてすいませんえ。ともあれ、とんでもない集落というのがあって、日本全国にあちこちにあって。どこに住もうと勝手だが。。。
食い物食うこと、つくること、栄養を適度にとることはできるだろうが。。
BSも映るだろうけどさ・・・
コンビニとか関係ないんだろうけども。
そういう家で育つとそういう家におけるその親の力とかあと近所の人とか、その影響が大きいすぎるんじゃないかしら。
オレが何してたって?
少年でボーイスカウト入ったり、学校で友達になりその人の家にいったり、バスのったり自転車で遠くにいったり、ともあれ距離的に遠く、あと意味的に遠くのところを目指す気持ちが大きかったんだが、
それはまあ本が好きで本で得た知識から世界の深さと広がりを感じたりしていたこともあるんだが、
たとえば親がたまたま本とか読まない人で図書館もなければ、そしてテレビもあんまり見ないとしたら、
世界について深い広いということを知らず、まさにたとえの通りに井の中の蛙なのであるが、
それはそれで幸せなのだが、しかし「知りたい」気持ちというのは原初的に人間が持っているものではなく後天的に付与されるということなのかなあみたいな。
そんなことを日曜の朝から考える。