連関(すべてはつながっている)

・現代という2020

 

コロナ禍

という言葉がいつ最初に発生したのか

 

NHK放送文化研究所より

https://www.nhk.or.jp/bunken/research/kotoba/20200701_4.html

 

そうだね

 

まだ20200810の現在では

wikipediaにさえも コロナ禍 の項目は

NHKのこれしかリンクないよ

 

さて

 

・歴史はぜんぶ連関のつながりの連鎖

 

過去の人間がいなくては現在の人間は

いない 

 

・「この世界の片隅に

が20200809にNHK-Gで放映された

 

もちろん広島と長崎に原爆が投下されて75年経った夏であることと

 

大きい厄災は自然災害と人災と感染症災害と

 

どれをとっても酷いもので

 

人間は歴史の中で必ず戦争して

 

殺しあいをして

 

だんだんに対人というよりも

大規模機械戦争になっていくのだが

 

それでも目的は「対人殺傷」に他ならない

 

ヴァイキングの時代にあっては

殺人の方法は

重量物あるいは槍の投擲による人体破壊

直接打撲

くらいしかなかっただろう

あと毒殺

 

いまは大量破壊兵器というものがあり

 

おまけに「貧者の核爆弾」まである

 

この世界の片隅に

で描かれるのは戦争の実像であって

 特に

原爆が広島を焼いたそのあと

あとにも人間は

かろうじて生きているものの

ガラス破片が肉体に突き刺さり

手は途中で焼け崩れ上肢が寸断され

生きているもののもうそのまま死んでいき

蛆がわき蠅がたかる新鮮な死体

をアニメで描いていることである

浮浪児となった戦災孤児がその母のまわりを

うろうろするがやがてもうそこには

何の生命もなく

ふろうしていく

 

孤児はすずさんと周作さんと出会うことで

生命をつなぐことができるのだが

それは奇跡のようなもので

 

昔に

花巻郊外の美術館で

戦災孤児の写真

の展覧会をみたことがある

人間はこんなに痩せることができるのかとおもえるくらいの

悲惨な

痩せた裸の写真だった

 

なぜこういうことが起こるのかというと

人間が社会を適切に運営できない動物だからである

 

というあたりから「政治的」イデオロギー

とりかわされる

 

どのようにこの人間というやっかいな争いを起こしてしまう種を

とりあつかえばいいのか

 

ぜんぜん答えはでてこないが

 

すべての出来事は

その前の出来事があって

 

いまの現在がある

 

すずさんは生きているし

右手がなくても生きている

 

途中にいろいろ挟まれるが

 

戦争を描くときに

反戦の思想があることと

結果として作品が

余計なイデオロギーを排除することは

両立できる

そのことに富野監督は驚愕したのだと思う

 

余計なイデオロギーというのは

「---でなくてはならない」

のように

ある視線からみれば「それ以外の見え方は存在しない」くらいの

ベースである

 

ベースはあっても

邪魔をしてはいけない

 

ただそこにあるがままに取り出すことは人間がつくる物語では

ほとんど不可能だ

 

観察者に徹するというのは

欺瞞にみちていて

「自分の思いや意見」がそれを邪魔する

 

ところで旧世代がイデオロギーなるものを

つくり

高め

建築していたそれらは

 

どこかからやってきた

 どこからきた

 

世界の見え方がかわるような「考え」が

枠組みが

どこでうまれたのか

 

旧いところ

 

16世紀がおわり17世紀がはじまるところ

 

「世界」があって

われわれにはそれが見えているかというと

実はみえていないのではないか

 

という想像がはたらくためには

 

世界があって自分がいて

 という認識がないといけない

 

自分があることは自明ではなく

 

世界はあるのかないのかの前に

 

世界って

 

せかい?

 

それ女の子の名前?

 

わからないことだらけ

 

わからないなあと思うためには

不思議に思う気持ちがないといけない