広告屋のことは代理店としては軽蔑したいと思ってそうしているが
コピーを考える脳のはたらきは重要だと思う
短くまとめる・・いいパワポをつくるみたいな
まあ「何を」出すのがが一番重要だけど
それでいま考えているのをどうにかこう
わかりやすく短く
切り口を
考えている
”言葉の力で”
変化をもたらす
それは
わかり合うとか説得や共感や愛などではなくて
言葉がそれを導くのだ勝手に
勝手にというのは「導かねばならぬ」という意図ではなくて
勝手にそうなったという意味で
まあ勝手にではなくて実際には当事者の意思によるんだけど
二名いたらそれでなにかがうまく水が流れたみたいなことが起きた
んだと思うの
一人は大人なのに人見知りで
もう一人は素直でなんでも言っちゃうこども
こどもというかティーンで
大人になっていこうとしている
人見知りというのは広辞苑をひいたのだが
「子供」に使われる言葉
大人には使わない
だから使うとすればそれは単なる喩えということになる
しかし属性としての人見知りがあるからこそ
言葉のつかいかたや使用法(おなじこと)
言葉への信頼とかあと言葉に殉ずるみたいなブーメランも受け止めるような
嘘がつけないような(なぜなら嘘とは真実に反する言葉なので反するなんてそんな言葉の倫理に基づかないことはできない)
場に合わせるとかできないような(言葉より場を重んじるなんて言葉に失礼だ)
そういう感じ
あとは言葉とは別に目の前にいる他人をみていないというか
見えてるけどみていない
つまり認識していない
他人がいる場で他人には気をつかうというかなにかコミュニケーションをとって場をあたためないとみたいなことは一切考えない
これも場のことか
他人がいればそれで二人のいる「場」がうまれてしまう
ひとりのところは「場」ではなくてたんなる現存在だからね
場というものは必然的にコミュニケーション
言葉を媒介としたコミュニケーションが重みづけとして生まれてしまう
これも言葉の機能ではあるのだが
そう
そんなコミュニケーションみたいなことに言葉を使うなんて道義に反するみたいな考え
言葉はもっと固まってかたいもので誰かの何かを変えるためなんかにつかわれたらアカンやん
誰かに向かう言葉ってそれは人に向かうってことでしょ
言葉は他人なんかへ指向する以前に自分の思考とともにあるんだよ
だからその言葉は自分の言葉でイコール自分の思考なんだよ
他人からなんか攻撃がきたら反論しないといけないんだよ
他人を変えるとか他人とわかり合うとか他人を説得するとか他人の寂しさをどうにかするとか他人のことに言葉は使えないんだよ
言葉は自分の思考と一体だからこそ自分そのもののことなんだよ
極端な思想
人見知りこそが言葉と最も近くに寄りそうんだって強弁したいだけなの
(強弁 きょうべん 無理に言い訳・主張をすること)