ついったに依存したりとかする人間

なぜなんら

 

そこのそこは集会所であり

おまけに匿名で

しかしそれぞれが勝手に自分のこころの中を

そこに置いていく

 

という場所だったはずなんだが

収益・人気を数値化・売却・露出・性行為売買などに

つかわれるようになっていくのが人数多い場所集会所の必然

というやつで

広告モデルという収益システムはたぶんちょっと

たぶんちょっとそれこれから立ち行かなくなるんじゃないかな^^

と思うのであったなぜなら

これはかつての2chにおける嫌儲とはまたひとつ違う

タイプの混乱じゃないかなと思う次第

 

場所

 

場所はSNSじゃない場所を人間が対面でもやっていけるような

職場じゃない場所をつくりだすしかない

 

のかもしれないと思ってやっているのが日本全国における

なにかの小さい店をする人ちいさい「教える」サークルをやる人

あるいは助け合いを定款として行っていく方式の集団の人

 

なのかもしれませんし

 

とにかく不特定多数顔が見えなくて素晴らしいSNS

の時代はちょっと隆盛そしてそこからの転落

なのではないかしら2023

 

もちろん巨大であることのメリットを

イーロン・マスクがわかっていないわけではなく

しかしマスクもとつぜんまた誰か他の人間についったを

うりわたすかもしれないしね

 

そんなこととは関係なく

ついったにおいて

好きに

書いている存在の市井の無名のしかし

濃厚な個性

のあるハンドルネームだけの存在たちは

それが見える場所はSNSにしかなかったら

SNSがなくなったらそれらの個性の人たちはいなくなる

みえなくなる

オレからの不可視になって消えてしまうのがオレは

オレとしては)タダでみてるけど)もったいないくやしい

なんとかしてそのような人たちとのなにか橋ブリッジはないものか

と考えてしまうけど

 

いままでなぜそれが成立していたかというと

SNSがある(民営で利益を中心とした場所)

・勝手に検閲なく書いてよい

・性的なとかその他の規制は最低限存在する

・誰も「私」のことを知らないからこそ書けることがある

・舅とか姑とか義理姉への呪詛にも似たわるぐち批評

・コドモの成長やコドモの友達の親のおかしな変な犯罪的な側面

・井戸端会議・_?>の更に俗悪にして醜悪にした部分までも

・・・いわゆる精神系の問題があってしかし

これまで気軽に病名がつけられていなかったが

さいきんは病名もつけてくれるのでそれで少し楽になってついった

プロフにもそれを書くことができるようになってそれで

今日もフロにはいらなかったとかそういう朝おきれなかったとか

そういう日々のくりかえしのしかし毎日がそれぞれ本人にとっては重大な

そういうことばの出てくる

それらのことばは「当時者」が外にだしたいだけのひとりごと

であってもそれを見ている人が見えない場所にいるという

あくまで誰もなにもコメントさえも言ってこないけど

確実に誰かがそれをみている)誰か)には)名前がない

 

そういう世界って現実のちいさい集会とか田舎のあつまりとかには

無い

わけ

じゃないですか

何も言ってこない人というのは対面の場合には

いわなくても視線とか表情ってぜったいあるもんで

それはかくせない(対面ならね)

 

しかしSNSでは絶対不可視の原則をもって

安心していくらでも醜悪なことも言えるし

いくらでも自分の今日もこんなんだった!アルチュウだった!酒のみすぎた!

しらない人がとなりに寝ていた!金をとられた!痛い目にあった!

などなどのノイズともいえることごとが

SNSの上にわんさとあふれる場所はそこ以外になかった

わけで

 

そりゃー方法がわかれば(そのようなどこかにかくれているような

鍵をかけたから多分何でも言っていいような気分になっているような)

そこにずっと依存していてもおかしくない

 

リアルライフなんかよりはるかに

色が濃くてしかも身体直接接触しなくてすむんだもの

でも精神のどのように影響が滲んでいるかは

それは本人が自覚して自分のことをモニタしないかぎりは

わからないね

 

 

ついった依存は簡単にみじかく語れるような問題ではない

もっと本質中心こころの奥につきささって抜けないタイプの主題