・社会が遠い(事情の重なり)
選挙で誰をえらんでもオレの生活には関係ない
というのは嘘で
法律などで直に関係があるのだが
その関係のありかたが目にみえるようなわかりやすい形ではないので
「関係ない」といいきってしまう輩がいる
・死が遠い(時間)
いま手が痛いとかうんこが硬いとかそういう直の身体感覚は
自覚(リアルタイム)できているが
死はどこかでおとずれるしそれの時間確定がわからんし
遠いときはあまりに遠いので
徐々に進行する心臓疾患や肝臓の機能低下や腎臓の機能低下やその他
もろもろのものは「身体感覚としてわからない」ゆえに
遠くにあって「それは存在しない」といいきってしまうのだが
それは誤であって
それは存在するのである
オレたちがそれを知覚できないだけでね
だからそのために血液検査とかでちいさい変化を感じようとしているが
数字をみても人間なかなかアホなので感じられない
「はじまりのまえにおわりがある」というのは
つまりおわりは必ずどんな場合どんなものにもあるという意味と
とらえて
いつもいつでも終わりがある
終わりが先にあるのだ(逆説的に)
という話しであろうと思う
だんだん老物の度合いが強くなっていくと
健康もそうだし社会もそうなんだが
健康についてはそれが自分のことなのにどうも自分のこととは感じられなかった若い時代とはちがってもうリアルにガタがきていることを実感しそもそももう走るとかできないし心臓のなにか重い感じとか息の続かない感じとかリアルにそれはもうわかるのであるそれが老物になってはじめての感じ方ではないかとおもわれる
そもそも時間というものをかんじる器官をわれわれはもっていないし(ここは前にしらべたが無いわけじゃないって話しでもあるが)
そして時間がそうであるのとおなじく我々は社会が社会として自分を包摂しているものだという感覚を感じることができない
できないがしかし自分からすすんでもとめて進んでいって他者とかかわったり他人のようすをみたりきいたりすることで「それは自分と同じ人間のしていることだ」と思うことでかろうじて「社会というものがあるんだ」と知る感じることができるようになっている
知ることと感じることもまたちょっとズレがあるのだが
つまりこれらの社会なるものが「ある」と思う人はあるし
「ない」と思う人はないと思ってるままでも生きていけるし
そのまま死んでしまって社会を一切かんじないままの人もいるだろう
社会ではなく「そこにいる他人」という意味で家族というものが
うまれてからなぜかちかくにいるのだが
中にはそれが「家族」ではなく「施設の職員」である場合もあるし
ちかくに誰かいるのはそうだとしてもなにごとも
家族もまた「他人」カテゴリであると認定したほうがいいような気がする
しかし世の中はそうではなく「他人」と「家族」カテゴリを別のものとして
考えているようなのである
おかしなやつらだ
そのへんふくめやはりカテゴリとか分類そしてその関係性が
もっとも重要な考えるべきことだと思うのでパース読もうぜっていうこと
でもあるんだけどね
まったくヴィンランドサガをよみにつけよむにつけ
人間「社会」のアホさとかアホさを認めてなおアホかのか
なぜそんなバカのプライドが重要なのかそれなしで生きていけないのか
生きていけないんだなーそんなプライドなんておなかに入らず栄養にも
ならないのにな^
と
思ってもしょうがない
現代日本だってアホだらけのくず社会である
さいきんますます民放地上波TVがみられなくなってやはり録画か
TVerかばっかりである
台風レポとかいんたびゅーとかしても無意味なのなぜわからぬ
皮相な悲惨な感じだけを示したいのか
それは無意味なのに
バカめ