すごいなあと思うがこれは小説としてのアイデアと
設定の見事さであるのでそれはおいておいてそれを映画にしたときの
2つ(以下映画の内容について言及があります)
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1.オナニーのシーンがあるのはそれはいいんですがオナニーしているときに脳裏で想像している光景(超自然)を映像にしてしまうとそれは小説における想像力の範囲よりも下になってしまう問題
下というのはあくまでオレの感想ですが
下です
2.小説よりも上になりうる部分がありそれは
小説では文字の記述でこのこれが性的快感であることを自覚しているという
ことなんですがその快感のありようは文字の記述から想像する
様子に限界があったが
しかしこれも諸刃の危険性もあることなんだがしかし
快感がどのようなモノであるのかを実際に水がスプラッシュする様子とそれを体に被るつまり濡れる様子を映像にしたことによって
文字よりもすこしだけ上の表現(伝わるということ)になった気がして
しかし一方で水に濡れつつこども(男児)と戯れる様子は醜悪性も
高まってその後の展開をしっている原作既読の人からすれば
すこし悪趣味にも見えるのだった(原作ではそこはその後の意外性
つまり性犯罪者である実態は読んでて気が付かないのにそういうことが
発現するという驚きの装置があるから)
映像でみてしまうとそれはー
という感覚がうまれてしまう
つまり映像はすごくあからさまで
そのくらいにしないと映画の2時間(より長いけどね)では
伝わるものにならないという事情だとは思う
小説は個人のものなので何回でも読みなおせるからね
つまり映像では「ほのめかし」はありえないということ
桐生さん’(新垣結衣)がショッピングセンターの
バックヤードから店内へ出るところで
スイングドアに「引いて!」と書いてあるところを
押して出ていくシーンはあれは桐生さんが
そういうこの職場が大嫌いととることができてしまうから
あれを無意識ですとはなかなかいえんばい
そうかな
などいろいろ映画表現について考えてしまうねであった
朝から
はらへった