小説を読んでいたらこころについて考えることができて

仮説

・「自由意思は存在しない」という話(心理学実験)があり

それは

たとえば脳で「右手を上げよう」と思う

その思うー上がる

の以前に「体幹スタビリティなどの筋収縮運動」が起きていることが

電気的に確認されており

これをもって「自由意思の存在開始の前からすでに我々は動いている」ことを

もって自由意思は無いというんだけど

 

そうではなくて「脳が出している指令」と「身体の動くタイミング」とさらに

「腸内神経細胞」があるわけだから

全体として動くことを意思する「神経細胞の集合(それは脳かもしれないし腸かもしれないよ)」があると考えるのはおかしくはない

 

前頭前野で「意思」は発生するというが腸かもしれませんよ

体幹とかにも近い場所だしね

 

さてまあそれで仮説

 

・人間はすべて「心」をもってから「行動」をしている

・「心」の機能は神経細胞が行っている

・「心」がどのようになにを「意思」しているかを

本人が知るためには言語をもって行うしかない

・さらにその「心」を本人ではない人間が知るためには

さらに言語を本人が使う(それは記号かもしれないし音声言語かもしれないし記述言語の書記かもしれないし)という手段をもってしか知ることができない

・本人が本人の心を知るというのはメタ構造であり「心」そのものを知ることは本人にもできない 仕方がないのでイメージでそれを本人の中で「納得」するわけだが

本人もそれを本人にかくしておきたい「こころ」もあるし

あるいは言語の形で思考していることを言語として外に出せる人もいる

 

みたいなことを考えました

 

本人ふくめ人間は全員メタ構造をもっており

これは教育学ではメタ認知の構造を知る必要があるゆえ使われるが

そのことなくして「こころ」の理解はすすまないであろう

 

オレはその行動をおこさせる「こころ」を書くときにどのような

書き方があるかを知りたいのよ

 

って『みどりいせき』を読むと思うわけよ