「他人」 ←「霊」

しかしまあそれでオレはえんえん『力と交換様式』を読みつつ

考えているわけだがその内容の中心にはつねに他人がいる

 

というか他人がオレにとってトゲであり嫉妬であり羨望であり

憧れであり欲望であるので

 

たまに電車や車で人の多いところにいくとくらくらする(めまい()のだが

そのときオレが観ているのは多くの他人であって他人は不思議なことに

オレにはわからないふるまいとかその他の行動をしているし

姿形もオレがみたこともない様子であるから

オレはずっと驚き続けるしかないのであるまるで山村でババアに育てられて

7歳まで人間というのはデフォルトでババアとして存在するのだと

思い込んでいたら突然都会の学校で多くの人間をみて人間とはこんなにも

バリエーションが豊かな変態だったのだ!と知るようなことだ

 

ウソですけど

 

しかしまあ他人がいるから「交歓」したり「交換」したりしている(せざるをえない)

のであって

まことに他人は厄介であり

 

つまるところオレは「この人間社会は厄介だ」と言っているのだが

そこでこの「社会」という言葉をつかうことにすごく違和感が年々ましてきて

社会なんていうぼやけた輪郭の言葉ではまるでオレのいいたいことにそぐわない

ので

「他人」ということにした

オレ以外の人間は全員他人であるという意味である

 

そして『力と と読んでいて一番思うのは

・きまり(法)

・暴力をともなう強制の命令

みたいなやつがオレがうまれたときにはもう既にそこにあって

なにしろ「小学校」というところにいくとなんでもなんしろ

命令されたり強制されたりそこでじっとしてろとか

いわれるんだけどそれっておかしくない?なんでそれをきく(従順)ことが

絶対なわけ?

同級生には命令をきかないやつとか教室を脱走するやつとかいましたが

まあそれは「集団生活の訓練になじめないやつ」とみなされていたわけだが

今思えばそもそもこの世には「そもそも学校にきていない同年齢の人」が

たくさんいてTHEYは病院とか施設とか家とかいろんなところにいて

いろんな事情で「小学校」に通うことがかなわないのだったと今はそれを知って

いるんだが

そう

この世はオレが知っているよりはるかに大きくひろく多様である

 

 

その「社会」において他人がオレに命令してくるし

オレが生まれる前から「お金」をつくってそれをたくさん「稼ぐ」ことで

食っているのだと知ることになる(父がその「仕事」をして「お金」を家へ

はこんでいた・・・)

はこんでいたのだ

お金を

いまならネットバンキングですかい電子的な

 

そして

ばばあとかを筆頭に「おっさま」という人が家にきたらもてなして

あと寺とかいって石にむかって手をあわせたりしていた

これが祖霊崇拝跪拝拝礼祈りだったということを知るのもまたあとになってからである

 

これで宗教と経済と法のことが出揃ったのだが

こうした「社会」における「他人の決めたこと」が全部オレに影響して

くるんだけど

じゃあその他人のきめたそれをオレが守らないと遵守しないといけない理由は

なんなんだろうかとオレが考えるのも当然といえよう

 

かたくるしいのはきらいである

 

迷惑かけないというが迷惑なんてのは誰だってかけている

んだよ

 

それで『力と

を読むといわゆるこういうのの「起源」に

さかのぼることができそうな気分になるのである(書いてあることが本当で

あるかどうかは別として)

すると宗教者がいったいどうしてそういうことを(その当時の世論に反する方向の

ことを)言い出したのか

ということがそこにあって

まあ「そういうことを言うことが霊的に強制された」つよい力によってそれを

言いたくもないのに言うことになってしまったというんですよ

はあ~理論的に考えたらこうなったみたいなもんじゃないんですね

とかね

 

お金にしても「交換につかわれる」もの自体がお金のできる以前から「モノ」が

あってそれは交換専用に使われたがなぜそんな交換ばっかりしていたかというと

神 とか 霊 的なものがそうしろといったからだみたいな話に回収されていくので

ある

そこが面白いと思いませんかえ

 

についてはまあちょっと「暴力」と「他人に命令をきかせること」

の話となると思うのだが・・・・(ここに霊が登場するとしたらどういう登場

だろうか?)

 

ともなくなんちゅうかね

他人のことがうるせえなと思っていたらいつのまにか

の話になっていくからこれはちょっと気分がおもしろいねっていう

 

がそうさせるのだというと科学の方面から何を非科学的なものいいをしているのだ

ニーチェさんとかも批判していたらしいがニーチェだって結局霊の方向に人間ごと

回収されてしまったから馬かわいそうで人間理性の世界から脱皮していったんじゃん

つまりそういうことだ人間よさようなら

 

オレが自分でも何を書いているのかよくわからないがともかくそういう

話が霊にいくと霊をばかにするやつは霊からのリベンジをくらうであろうと

いうことだ

 

ともあれ

他人がいる

 という呪いと救いの両面の現象そのものが人間ひとりを生かしてそしてさいごに殺すためにも不可欠だってことだよ

 

人間から人間ではないところへといったりきたりかえったり出発したりしているのだから人間ではないところのことは霊にまかせるしかないだろう

 

我々は人間界と人間以外の界をいききする存在なのだ

 

いったりきたりの往還なのだ

 

昔はもっとそこの距離が近かったんだろ(恐山とかそうだろ)

 

って思うんだよ

人間理性が全てを解決するのかとおもったら

人間はここに至って核兵器と核戦争と国境とジェノサイド

をちっとも解決できなくなっている

勝手にそれをつくってつくってから解決できないといっているのである

つくらなかったら解決の手間も無かったのにね

国境と核の両方とも昔はそんなもんみつけなかったしなかったんだよ

でも

国境にかわる「人間集団と他の人間集団とのあいだの境目」はあったかもね

それも

人間がつくったことにはかわりないが