しぶとい国家 他人

それこそ「国家」という

つまりは人間の集団が 仮にでもこの地域を皆でおさめて仲間の

中でやっていこうぜ

とか

仮にでも政府ってやつ認めてもいいからここをうちらでまとめようぜ

というのが「国家」らしいんだよ

 

それまでの(それまでというのは絶対王政が出来る前)時代は

つまりは「中世」で

中世とはなにかというと豪族がいて荘園があって

そこで暮らす民は「奴隷」というか「農奴」というか

とらわれ民といいますか

まあそこにいるしかないというか

 

それに対して「絶対王政」は王たるものが「聖なる王」であって

たとえば病気をなおすとか

なんか霊性がありまして

民は王に進んで仕えることにきめた

きめて

そこにあつまる(他の荘園主の豪族とかではなくて)

ことでその王が他のやつら豪族をおさえつけるパワーをもつ

にいたって王だけが「支配権力」なんだってさあ

 

 

そういうのからだんだん「王をたおせ」みたいなブルジョワ革命がおきる

わけだがここでの「ブルジョワ」はもう貴族とかまあ貴族だけど

貴族じゃない民もいるしなんかこう

C(商品経済)が強くなってくれば身分とか関係なくなって

金あるなら名家みたいな?

そういう理解でいいのかな

 

なんか「国」は「民」のものになっていって

 

マルクス史的唯物論によれば世界同時革命で政府は国家は

発展的に解消するというがそんなことはなくて

柄谷によれば国家はもっとしぶとい

民たちの念のあつまった霊性のようなものが国家にもある

あるらしい

あるんじゃないか

みたいな

 

参考としてノージックアナーキー・国家・ユートピア

における「最小(規模)国家」とか

「相互保護協会」みたいな・・・

https://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/kenkyu/98s2/anarchy_state_utopia.html

 

さらに別の参考

デネット

心はどこにあるのか

心は何をしているのか情報処理なのか

ダニエル・C・デネット『心はどこにあるのか』|片山詩史

 

なんかね^ー^オレがおもうに

「ひとりの心」と「ひとりが他人に対して思う心」と

「他人同士が共鳴する心」があると思うの

 

それってそれぞれが別なんだと思うのね・・・

一人の中での心の働きがあり

その一人が誰か他人へ向けて指向して思う心の内容があり(ここではそれが他人へと伝わるかどうかは問題ではなく一方通行でよいのであくまでそのひとりの心の中で何が行われているのかの中での「他人を指向する」部分です)

そしてついに他人と他人が2人以上の複数で共鳴する心になっている場合が)(まれに)ありうる

と思うのね

 

国家なる集団(怪物)をつくるのって最終的には人間が複数なわけじゃないですかあ

 

ホッブスが本当は何をイメージしてリヴァイアサンを書いたのかちゃんとしらべないといけない(オレはそれを知らないから)

 

このように無数に無限に過去の研究は参照できるのできりがないともいえる

しかし面白いともいえる

 

アナキストを名乗るのであれば国家をどうすれば国家なし 

にしうるのかを考えなくてはいけないので国家を知らないといけないのである