感じ方

・『世界共和国へ』をあさって返すのでそのまえにメモ

 

感じ方の問題

~なのです

と言われて驚くのか違和感を感じるのかそれはその人がそれまでにどういう

スタンスで歴史とかに向き合っているかによるわけで

 

・どんな「国」もそうなるまえに宗教があって

みたいなこと言われたらびっくりするというかおどろくというか

不思議な気になるわけですよ

オレはこの2日くらい宗教についていろいろ考えかたが変わってきている

 

・お金のことはなんとなく体感として(この「体感として」はずるいいかたでほんとは「考えなしに」なんだけど)どんな社会でもおおよそお金またはお金としてつかえるモノ(米)(羊)はあるだろうつまり交換

とは思っていたが

 

・宗教はどのどこにでもそれが起こるというのがいまの宗教と昔の宗教のことを考えてあらためて宗教ってお金よりもっとヘンだなと思うようになり

 

・というか理屈では人間が過剰なところがある動物だから

「考えてしまう」(このへんは「人間は考えすぎる葦である」の鹿島茂『思考の技術論』にある)のはわかるしそこから「ここにないものとかのことを考えるようになってしまった」のもなんとなくわかる

 

・しかしそれがすぐに「宗教を専門とする職業宗教人」がうまれるところまで

いくってのがどうも集団の中の「役割」としてなんかね・・・

娼婦と宗教人と収税官吏と・・・

 

・しかもあれじゃんザラトゥシュトラことゾロアスターみたいな

古代宗教だったとしてもエジプトにおける古代宗教にしても

宗教と「王権」がなんかこうリンクしてなかったのが途中からリンクしたり

宗教の職業専門家が「えらい」ことになって「えらい権力」をみにつけるように

なるわけだが

神みたいなみえない存在と

人間宗教家みたいな「そこにいる」存在がね

同じなわけないのに

フィクションとしての「職業宗教家はえらい」を信じてしまうわけじゃん

なんかそこにどうしてはじめから重なりがあるんだか

誤謬があるんだか

神が偉いとしても人間はえらくないんだから別にしておけばよかったのに

 

(’このあたりが橋本治『宗教なんてこわくない』に書いてあった気がする

んだが記憶があいまい)

 

そのあたりがオレの気に食わないことであって気に食わないという感じ方は

大事にしていかんとかんと思っているのであった

大事にする

 

ところでこの「感じ方」ですが

「わくぐみ」と言いかえてもいいわけであり

『思考の技術論』でも網野善彦パラダイム変換的体験をしたときの

言葉が引用されている

網野はマルクス主義歴史教育体系の中にいたんだってさ

そしてあるときにそれまでの自分が無だったと気が付いて愕然とする

それはいい体験だね~~

外から「それは正しい/まちがっている」と判断されようともなんだろうとも

本人が「こっちのほうがあってる」と思う体験ってそれが本当に

重要なんじゃんね 外からのなにかはまるで関係ないから

 

それにしてもこの鹿島の重たい本は

せっかく断片的に面白いことが書いてあっても

その中身がどうにもこうにもまとまらせかたがわるいので

たにんにさっぱり伝わらないのである

内容をどのようにプレゼンするかの視点がこうするしかなかったのか

という感じである

別に批判しているのではなく「思考というものを技術的にこのようにという

形で行えばいいのではないか」というならば

もっと一般化と具体例のバランスが考慮されるべきなのである

 

そこをうまく考慮したうえで章だてをうまくして

わけてプレゼンして成功しているのが『独学大全』ではなかろうか

 

とかいって

すいませんね鹿島先生