そう考えると
音楽がサブスク化した(なんしょ無料サブスク広告モデルまで成立してしまった)
のとおなじく
本に書いてある文字を読むのにネット無料で読むがあふれている~~
あふれていることはいるのだが
音楽と違うのは
本の場合はそこにある文言を読むことが本でよむのとネットで読むのは
ネットのほうが「断片」であり「編集とか他人の視点を受けていることが
少ない(価値選別の問題)」であり
実際には写真や動画といっしょにすることによって本そのものの情報の見せ方
とは違うものになっているという点があるが
「文言(テキスト)」が無料で読めるという点では同じであり
つまり音楽サブスクと文言ネット上
どちらも「みたいききたいみききしたい」を無料でかなえている
のである
実際には無料ではなく広告をみさせられているのである
・(だから)音楽の物理メディアや本の物理物体というモノを
金を払って購入して家に持ち帰ることがすくなくなった
つまり売れなくなった
・(だから)広告をみさせられているという行為(受け身)は
そんなの関係ないよといいながらもその会社の名前を無意識ゴミとして
受け取ることになっている
・そんなゴミはうけとるべきではないのだがいたしかたないとしてうけとる
・広告ゴミをまきちらすやつらはそれでマネーを得ている
(広告主は名前をゴミとして大衆にまきちらすことの利益を得て
代理店が金を得て
サブスク等の主催者はその金で運営をして音楽作成者に金を払う)
・(いったいどういう形なら金が動くのだろうか?と考えたすえに
こうなった・・・)
・実際には客はネット通信料をどこかで負担している(あるいは公衆WIFIに寄生している)
・本や文言の場合は(多くの人の指摘の通り)これまでは
著作という形でサブスクリプション(頒布)するための方法が本という物理を
つくってそれを形あるものとして物流にのせて遠くの他者にも売るという
やりかただった
じっさいは頒布といえばdistribute
であるが
”サブスクリプションは、月単位または年単位で定期的に料金を支払い利用するコンテンツやサービスのこと。”
ここで重要なのはあくまで利用であり「所有ではない」ことである
だがしかしここに至って我々は「そもそもわれわれは何か(あらゆる)を所有することはできない」のだと
気づかされる
のである
かりうけてるだけなのである
金みたいなものを「持っている」「使うことができる」ように思えるが
それはそのときこの場所でこの時間にそれができるというだけであって
ずっと使えるわけではなく
自由にすることができるわけでもなく
処分できるわけでもない
ということを
まさにそれは本当のことしか書いてない仏典に書いてありそうな気が
するのである
いまいろいろぐるぐる書いているがここでなんか言いたいことは
「なんとかして金銭をあつめる方式から脱却できないものか」という
ことなんだけど
はじめは農業だったのであるが
そもそも農業をはじめた人類がやったことは集住でありすなわち
農業は「労働集約」であり多数の人間があつまってやるもの(そうじゃないと
やりきれない)だ
ということで金銭のかわりに実際の野菜食い物を得るというのはひとりじゃ
できないなあと原理的にそう思った
それから自営について考えるのだがそこで本屋’(新刊再販モデルは崩壊するのでそれはしない)(古書と買い切り中心)を考えるのだが
音楽と比較することでなぜその「モノ」売る形式がうまく立ち行かなくなってい
るのかを考えていた
床屋とか食料品店とか飲食店は
人間がかならずするものすることやるたべるねる生きるの直結
なので髪は伸びるし食い物くうしなんなら自分で調理したくないから
外食食うじゃんね
外食といえば屋台である
おいしかったねえ
あれだって「うまくて人気のある屋台が儲かる」のであり
そうじゃない屋台は廃業してくよねえ
その一方でぜんぜん生きると直結していないものがあり
あるいは素人やりたがる系の店があり
・雑貨屋
・そばうどんパンの店(別個に)
だと思うのだが
まあこれだって成功する人は成功するんだけど
そばうどんパンはどうしてあんなにも新規で店をやりたがる系なのだろうか>?
雑貨に関してはポーランドの田舎でかわいい雑貨の店をやりはじめてもう軌道に
乗ってる人のついったみてるけど
あれってやっぱり「その地域にはそういう店は皆無」だから
だと思うのね(価値そのものはそこにあるとして)
価値ないものを売るのは無理なわけで
ライブハウスで600円で500mlドリンク買わされる商売は
これまた強制金まきあげシステムなのだが
その場所でそこに入るためには金を先に出せといわれており
金をはらってそこにいってライブの音楽ききたい(モノではなく
体験をしたい)という欲があるので対価を払うしかない
価値があるからだ
サブスク音楽で広告をがまんしているのも音楽に価値があるからだよね
本を買うのはモノとして内容のまとまり(著者が単一で内容が単一のまとまり
があってそこには著者の主張と宣言がある)を「耳を傾ける」ことが必要で
あるというそれを読みたいよというこっち(読者)の欲があるから金を払う
のであり
雑誌を買うのはそのバラバラにもみえて内容として雑多なものを観ると
一人の著者ではカバーしきれないような多様性の一端に触れることができて
そのことに価値があると思うから金を出して雑誌を買うのである
本当は紙じゃなくてもいいような気もしているがここかさきは
好みの問題(雑誌こそはWEBでもいいのだがしかし「ぱらぱらめくる
偶然性」が雑誌の紙にはあるのである・・・)
家にずっといてネットの中にいてネット雑誌とネット本とネット音楽
だけにふれていたら
ネット配信映画だけをみていたら
それはそのディスプレイに規定されてしまっている(しかくい絵ディスプレイ)
のであって
なにも風景が変わらないようにみえてしまうよ
箱の中の絵がうごくとかちがう文字がみえるとかいうけど
つまるところそこに「他人や自然のような外界が変化しているようす」を
映し出すことは
できない
我々は自分の眼と手ざわりと肌
をつかって外界をConsciousness
することをこの数万年やってきたので
そういう身体になっており
箱の絵をみつづけるようには身体ができていない(フィットして
いない)のである
われわれはヒューマンでありホモ・エレクトスなのである
ああまちがった
ホモ・サピエンスなのである
約11萬年前まではエレクトスもいたらしいね
エレクトス)むかしはピテカントロプスと言われていたが今の考古学ではエレクトス
エレクトスはもう直立二足歩行をしていた
エレクトスは200萬年かけてアフリカからこの地球全体の陸にひろがった
らしいぞ
そのへんがわくわくする
そのころエレクトスは生きることとセックスに懸命だっただろうなあ