境目(定義の) 何が商品になるのかどこまでがそうか

つまり「箱の(ディスプレイ)中にうつされるものは

文言も音楽も「情報」であって」

「そのものではない」

のである

 

音楽ならライブ

本なら・・・・本なら・・・・>?

 

音楽が「ライブだけが音楽そのものだ」というときに

複製音楽’テープやレコード

が現れたときに「これはそうじゃない」と言われ

しかし年月がたつうちに「これもそうだ」に変容していった

 

本は

本は「文字」のあとにできたが

本も「(~があらわす内容そのもの)」ではないし

それをいえば(~があらわす内容そのもの)は

極端なはなし 音声や文字として脳から出てしまった時点でもうそのものではない

のだ

そこまで言うと極端か?

そして文字がかきつけられ本になり本が複製できる方法ができて

それは「そのもの」なのか「意味内容がつたわればいい」になったのか

つたわるのか

理解されるのか

わかるのか

 

そうなると「わかる」

「他人にそれがわかる」とは何かの問題になってしまう

 

ことほどさように物事はつきつめると

スペクトラムになってしまい

境目(ここまではそのもの ここからはそのものではない)が

全くわからなくなる

 

まあ「意図してつくった音」

「意図して出した言語(脳から出した言語の形)」

どっちももう自然でもなんでもないし

その意味では脳の中にあるときから「自然」ではないのだろうて

 

それを買うとか売るとかが正直どうかしている行動なのだ

売るとか買うとかはじめにやったやつこそが罪人なのではないか

(だから最初に女あるいは男 を「買う」つまりセックスに金をもちこんだ

やつが罪人の最初の罪人)

だいたい売買春の前に「殺し 殺人」があったような気もするんだが

それもまたなぜ殺すのか (’食うためじゃないだろ?)

憎しみ=殺す

というのもおかしい話なわけで

 

「これをすればあいてが痛いとか苦しいとかになる」と

わかってるといえるのか他人なのに他人がなにをすると苦しいのか痛いのか

自分と同じようにそうだと信じているのか?>あ?