認識のかたち~|
『このゲームにはゴールがない』を
読んでいるのだが
難しい
というか「他人の心がわからない」の話だったのだが
どうしても懐疑論者のほうにさきにいってしまっている
しかし
つまるところなんじゃろかい
「他人の」「自分の」というが
・形式^生活形式(ヴィトゲンシュタインの用語としての)からみて
「悲しんでいる人には十分に悲しみを形式として外面にあらわしている様子が
みてとれる」のであって
それをうたがってどーすんだ
というものがあり
・それが是であるということと
・同時に「我々が自分自身に対しても同じように悲しみを悲しみとして自分の中に悲しみがあると感じているときには悲しみの外面的な形式をもって自分に自分が伝えているのだ」ということ
・これが「言語」そのものであるとまでは言わないが
・すくなくとも「悲しみそのもの」を直で感じているのではなく
・外面的な形式をもった「悲しみをあらわすなんか」を感じている
・つまり信号
・そういう形でしか我々は自分の「感情の認識」さえも
できない
・のだから「他人の心」も「自分の心」も「わからなさ」でいえば
そんなに大きな差はない
・ので
・前提として「自分のことは自動的に直接体感する自分のことをすべてわかっている」ほうが間違っているのであって
「自分に対する自分そのものというものは直では我々自分さえも体感などできていない」ほうがたぶん像として正しいのである
ということなのか>?
だったら他人のこころが「外面にあらわれるもの」だけつまり「外面にあらわれた形式」からしかわからないという「制限」が
あるのも
しかるべき
というかそのくらいで満足しとけよ
と
も
いえるような
かんじだねえ=~=
そういうことを昨日フロでかんがえてたんですよ
一晩たっても忘れていないのでちゃんと覚えていた
これは『所有論』で
「自分は自分を所有などしていない」)(処分する自由があるわけじゃない)(自分は自分を自由に処分することなどできない)
という話がオレのベースにありまして
そういうことになったのはもちろん鷲田が一人でそう考えたのではなく
長い考え考えのれきし(てつがくの歴史)が
あるからそうなった
んだと思うんですけどね
YJと週刊文春かってきた
今週がついに橋本愛さんの読書日記ですわ