さっぱりわからん。
 
わからんが「これからどうなる」について考えてみることにする。
何がこれからどうなるか、の「何」つまり主語について、ではない。
「今という地点から、未来であるこれからについて、どうなるかを考えること」についてである。
つまり未来予測。
というか未来観察。
というか、未来について考えるときに人の考えること、その方法について。

朝、歩きながら考えていたが、「学問というのは腑分けではないか」ってこと。
なにかを理解するには、大づかみに理解するという方法もあるが、できれば細分化してからひとつひとつ考えた方がいいような気がする。
12かける12をいきなり解くのは難しいが12かける10と12かける2に分けてから足せばまだ簡単である。144.
それは紙に書いて掛け算するときにする方法である。その方法をどこで習ったかというと学校である。学校で習ったことは、だいたいが積み重ねでできていて、まず足し算引き算を習ってから掛け算割り算を習った。それは掛け算が足し算を使って考える方式で教えているからである。
こうやってわざわざメンドクサイ文章を書いているのも自分が何を考えようとしているかを自分でわかるためにわざわざ細かいところから積み重ねてみようとしているのである。
 
さて未来計画というのはだいたい現在においての「傾向」を分析することを下地としているように思う。つまり「このままのペースで競馬を続けると、おそらく年間15万円から20万円は負けるだろ、それで年収がいまいくらで毎月の返済がこれだけだから、多分これは赤字というかパンクになるな絶対、じゃあ競馬やめるしかないか」って感じである。破綻したりパンクしたりしないようにするために、あらかじめ予測をしている。
「こうするとこうなる」という因果を知る。
 
だかしかし、有限の経験の中では、因果について、すべてのパターンをしるわけがない。だから類推することになる。
類推の精度を上げるにはどうすればいいのか。
真剣に考える。
考えるための材料を探す、多方面で。

だが結局、どうしても「今のところ考えられる最良の予想はこんな感じだ」までしか言えないのである。言えないが、それでもいいと思う。精一杯やったのだ。
 
だが結局、未来をつくるのは一人一人の人間なので、人が、特に自分以外の他人がどう考えてどう行動するかによって未来が大きく変化する。
 
日本が「閉じた」国だからこそガラパゴスとか言われ日本語はもうすぐ滅びるとか言われるわけだが、だからといってただ単に開いたところでやっぱり考えがなければ同じように日本語が滅びることだろうと思う。
ただ単に開くのがどれほどこわいことか。何を考えているかわからない他人なのにな。