2022「ゲルハルト・リヒター展」豊田市美術館

半年前から待ってました

 

最初に2021作品

ドローイング

 

グラファイト黒鉛)で白いちいさな紙に描く線と面と影

中世の銅版画のような白と黒だが

グラファイトは霞みやボケを表すことが

できる

 

しかしそこに空間があらわれる

遠近も空間のひろがりも

まえとうしろ

曲線の温度も

線と曲線と面面

面は煙がそこにあがっている様子しかないのに

なにか広いし

光もみえる

白い紙ののこっている白さだけなのにそれは光が

こちらへと向かってくる

黒いところは遠くへ奥へと進んでいく

 

 

ボケ

 

この展覧会は順序が重要で豊田市では年代の古いところから展示を開始している

最初に「モーターボート」があらわれる

大きい

 

とてもおおきな絵である

広告写真を投影してそれを絵画として油彩で描くそして

ボヤけている

とても像がボケている

しかしこれは水面を走るボートであることはボケていてもわかるし

何人がそこに乗っているのかもわかる

 

突然話はかわるがビルケナウはアウシュビッツを写真で撮ったプリント

の像の上にアブストラクト油彩を塗りそして下になにがあったかを完全に見えなくしている

解説がそれはこういう過程で創られたと解説している

 

絵そのものはどんな物語も何もはじまらず語られず拒否しているかのようで

「かのようで」さえも拒否する物体に見える

 

どう見えるのかが常に問われている

まだまだたくさんある

 

 

鏡がシンプルに鏡である作品も

ガラスが8枚ある作品も

グレイの色を塗布してそして鏡が装着されているものもある

そこに立ってオレの像をうつすと

オレがうつるのだが

グレイの色になっており

そして鏡でもある

鏡ってふしぎだよね

映っているけどそれはそのものが映っているわけではない

それはグレイの鏡でよりいっそうわかる

 

具象

リヒターの息子が赤ん坊だったときに描いて

そしてそれを20年そこらしてから加筆しているのだる

なぜ加筆するのか?

この前にあるほうの黒い複線が加筆分なのかそうではないのか?

 

湯から上がってきた女もその肉体はぼやけている

 

色をいろいろ格子状にひたすら大きくしていくと

そのアクリルの板たちはみなまっすぐの正方形なのに

並べると膨張色は膨らんでみえるので

そこの部分は正方形ではなく膨らんだ四角に見えるのである

ほんとうに

 

不思議で仕方がない

脳がそう見ているのだが

ありのままに見るということはわれわれにはできないのだ

 

できないんだね

 

でもいいんだよ

 

Waldhaus

シルス・マリアにあるホテル「ヴァルトハウス」と

その背景の森と山が描かれている

これも

ぼやけている

そう

だからそこに行ってみたいとオレも思ったんだよ

まあ5つ星だしバカ高いんだけどね

クリスマスの予約とかもう埋まるよ!

みたいな話

 

エリザベス2世もそうだったが

90超えるととつぜん死んじゃったりする

そうなんで

リヒターも90こえて

でも作品はみたいよね

きれいだからさ

 

きれいという価値だからではなく

価値じゃなくてもきれいだと思う色がある

のが MOOD(2022)

いい作品

水彩の色のなにか動くものが

写真に撮られて

作品としてそこにある

豊田市でしかみられないんだ

東京会場ではみられなかったんだよ

ちいさい卑近な優越感

そんなんどうでもいいんだけどね