まあ好奇心に殺されることになっても、好奇心を失うよりゃーマシってもんだ。
しかし他人の日記を読んでると、まったくもってむつかしー本を読んでいるもんだなあ。
年をとると「物語」が読めなくなりはじめる、と人の言うのは本当だ。なかなか没入って難しくなるのだ。まあそれでも面白いもんは面白いけどね。
 1:今日は尼でたのんだ「ひらひらひゅ〜ん」1・2巻が届いた。西先生である。この人もいつまでも「青春」を描かずにはいられんのだろうなあ、それはくわっ太こと桑田先生のあとがき漫画を読んでて思ったことだが、若いモンがいつまでもいろいろゴタゴタしてるというのがおおかたの物語世界というものだ。ただしごく一部だが。
 2:いっぽう「中間小説誌」(←書いてみただけであって、オレはそれがどんなもんだかさっぱり知らない)や、「中年とかオッサン向けの漫画週刊誌」(←これはすこしわかるぜ、マンサンとかのことだ。)などでは「ぜんぜん若くない者のさまざまな境遇」がいろいろゴタゴタしておる。
 3:またいっぽうでオレの勤め先はいわゆる医療機関なのであるがその待合においてある雑誌類漫画類というのはつまるところ週刊女性であり、またなんか分厚いわからん実話系女性成人向け漫画である。成人向けとかいうとまるでエロみたいじゃないか。そのとおりだ。所詮金と嫉妬とエロ、赤ちゃんと彼と不倫とご近所さんみたいな感じである、これもまた世界構成が全然違う。
 いま、3つ試しに書いてみたその分野ごとで考えると、世界はおおいに分断されており、その中でかろうじて男女が交じり合う交差点と呼べるところは
1:
だけのような気がするのだ。
2:3:
は、一見交じり合っているように見えても、完全に分断され男女それぞれのゴリゴリ主観で埋め尽くされた世界である(偏見)。というかわざわざそういう例をここにもってきているのだ。
しかし、1:に「相互理解」があるかというと、そんなこたーないのである。難しいもんだ。
そもそも1:の定義が難しい。永遠に青春的なるものについて描く、そういうものはどこにあるのか。メジャー少年誌でもメジャー少女誌でもなく、またメジャー青年漫画誌でもなくメジャー青年女子漫画誌でもない。
しいていうと「そのあたりのはざま」である。
思うに「そのあたりのはざま」にあるからこそ、かろうじての奇跡のような「混じりあい交じりあうところ」が存在しうるのではないだろうか。
今日は、ぜんぜんわかりにくい文になりすぎてしまって反省。
桑田乃梨子先生と西炯子先生については、何を買おうとまず絶対はずれでありえないので大変に信用できて、かつ、この二人はともに「なかなか他に類をみない絵柄」で「ストーリーがだいたいいつも”後に淡い余韻を残すような”感じがする」のだと思う。スッキリということはあまりなく、ほわーんという感じであり。
今日の分おわり。